Nintendogsにおける死とは?

余計な日常・余計なもの思いの4月24日より。

だから、そっちこっちでnintendogsと楽しそうに遊んでいるレポートを見るたびに、どんどん暗澹たる気分になってくる。

あんたらそれ、飼いはじめたはいいけど、止めたくなったら放置して家出されるのを待つか、データ消去して「始末」するしかないんだよ。

(中略)

やっぱりこの「終わりのなさ」は、このゲームの致命的な欠陥という気がして来た。できることならバージョンアップ時に、何らかの形で「お別れ」の道をつけてやるべきじゃなかろうか。

わぱのつれづれ日記4月25日より。

ただ、このゲームにも、一応「犬をゆずる」というコマンドが用意されています。やっていることは削除なのかもしれませんが、一応は現実的な解です(自分の家も昔ゆずった記憶有り)。

ゲームである以上、放置してしまう可能性は実際よりも高く、しばらくやってなくて久しぶりに起動したら死んでいた、というのは、ちょっとシュールすぎる気もします。

……さて、Nintendogsには「死」が必要か否か。

ご存知の用に、このゲームには死という概念がありません。実は、この事自体がゲームとしては非常に珍しいRPGならモンスターを殺すし、シミュレーションゲームならば、敵兵を殺します。スーパーマリオのようなほのぼのアクションでさえ、クリボー等の敵を踏み潰して殺します。まあ、「もじぴったん」のようなパズルゲームだとあまり死という要素とは無縁なわけですが。

そんなわけで、最近のゲームにおいて「死」というのは最早避けられない要素で、これをオブラートに包んで分からない用にしているわけです。SLGなら数字が減るだけとかね。もっともバイオハザードの様に死をリアルに描くことで成功しているものもあるわけですが。

そんな中、ゲーム中に一つも「死」という要素を入れなかったNintendogsはそのこと一つとってみても、特殊なゲームだと思うわけです。

さて、ゲームの世界の醍醐味の一つ。それは「If(もしも)の世界を味わえる」事だと思うのです。これは、昔シブサワ・コウさんも言っていた事ですが。

私がNintendogsで飼っているキャバリアのメスの「もこ」。これは過去日記にも書いてあるように、昔飼っていた犬と同じキャラクターにしたかったからです。(私は昔、キャバリアのメスを飼っていました。残念ながら、現在、すでに他界しております)

さて、Nintendogsの世界というのはリアルと非リアルが非常にバランス良く再現されています。これは、特に今までに犬を飼っていた人に同種の犬でプレイして欲しいのですが、動きなど非常に良く研究されている事が実感出来ます。スタッフの中に犬好きの人が間違い無くいるのでしょうね。細かい仕種、動き、癖等、とても作りこんでいます。

その一方で非リアルな部分もあります。第一に、今回書いた「死」と「老化」。ゲームの中の子犬は「永遠の子犬」です。他には糞の世話。ゲーム中ではクリック一発ですが、現実はそうはいかない(笑)ウチのもこは良く下痢になって大変でしたよ〜。そうそう、トイレという概念もありませんね。散歩中にしか糞尿をしないので。

さて、ここで大切なのは、このゲームは現実の犬をリアルに再現させる事が目的のソフトでは無いという事です。犬をテーマににしたコミュニケーションを楽しむソフトであって、そのテーマに必要であるならば、その事象をリアルに再現するという事でしょうか。リアルに再現する事が目的なのではなく、楽しむ為の手段としてリアルに再現する方法を選んでいる。

つまり、子犬の動きや仕種はゲームを楽しむ為に必要であるからリアルに再現し、老化や死や糞尿の世話等は楽しむ為に必要でないからカットする。シミュレーターとしてみたら不完全ですが、ゲームとしてみるならばこれは正解だと思います。「人を楽しませる」為に不必要な要素をばっさりとカットするのはゲームだからこそ出来る事ですから。

小説家の田中芳樹氏が「嘘は大きいほどいい。その嘘に真実味を持たせるために背景をリアリティーで固めたり」という発言をしていましたが、このNintendogsにおける最大の嘘はこの「犬」です。現実には何処にもいない、綺麗な部分だけ見せたかのような「人がこうであればいいな」……と思う要素を再現した犬。そして、その嘘に真実味を持たせる為に、背景(表情や仕種等)をリアルに再現する。「夢」を再現しようとしているようにも思えます。「芸夢」と書いてゲームとはこれいかに。

という事は、あくまで「ゲームである」という割り切りが遊ぶ側にも必要になってくるのではないかなぁ……と思うわけで、そうすると、表現方法は違えど、問題の根幹はいわゆる最近話題になる事が多い「残虐ゲーム」に通じる所があります。

「残虐ゲーム」はこのゲームとは正反対の意味で「ゲームである」という割り切りが出来ない人がプレイしてはいけないゲームです。人の黒い欲望の部分である「死」をクローズアップする事を表現して楽しむゲーム。正直、私はこの手のゲームは苦手なのですが、しかし、これもゲームだからこそ味わえる楽しみ。Ifの世界。

さて、そんなわけで、このゲームにおいて死という要素を入れなかったのは正解だと思います。死を入れれば悲しみも生まれます。これは、過去、実際に愛犬の死に出会っている私が言うのですから間違いないです。

しかし、「人を楽しませる」という目的を最重要視し、この「死」という要素を大胆にカットした任天堂の英断には拍手を送りたいです。

と、同時に、今ひとつの安堵は、例えば仮にこのゲームに「死」という要素が入っていたとしたら、何度も「出会い」→「死」という事を繰り返すうちに「死」という要素になれて感覚が麻痺してしまうんじゃないか……という、不安。簡単に言えば、そのうち、Nintendogsの犬がRPGのモンスターと大して違わない存在になるのではないかという不安です。

「死」という要素は大きい。だからこそ、「本当の死」はゲームの世界ではなく、現実の世界で向き合って欲しいのです。そこにはゲームとは比べ物にならない悲しみがありますが、得るものも大きい。その為にも、ゲームから「死」という要素を取り除いた事は大いに意味があると思うのです。